あなたは奈良県の公式キャラクター「せんとくん」を知っているか?初めて登場した際、このキャラクターは約350通の批判メールを浴びせられたのだ。しかし、「せんとくん」はその反撃を跳ね返し、今や奈良の顔として愛される存在となった。
この過程で個人の好みが社会的な成功を左右し、美と善が見間違えられていたことが明らかになった。
通の批判メール

籔内佐斗司さんが作り出したせんとくんは、約350通の厳しい批判メールを浴びせられたが、それら全てに返信する努力を惜しまなかった。その理由は、社会における美と善の見間違う姿勢に対し、堂々と向き合おうとしたからである。批判者は「嫌いなものは美しくない」と主張し、個人の好みと社会的な評価を混同していた。
だが、「嫌い」と「美しくない」は全く異なる概念である。前者は単なる個人の好みであり、後者はより客観的な審美的な評価である。
「私はこれが嫌いだから、それは美しくないと考える」これが真・善・美の区別を理解していない証左である。個人の感情を社会的な善悪にまで押し上げるのは適切ではない。美と善は別物であり、美しさの評価は一見した者の好みで揺れ動くものである。一方、善悪はより広いコンセンサスに基づくべきだ。
「嫌い」という言葉を用いることは、その対象を否定し、拒絶する態度を示す。それはただの好みをより深刻な社会的な問題にまで昇華させてしまう。美しさは個人の感覚に依存するが、それは善悪の判断にはならない。だからこそ、「嫌い」という言葉は慎むべきである。
せんとくんが受けた数々の批判から浮かび上がるのは、美と善の区別が曖昧な社会の姿だ。
作者の対応

作者は、350通近い批判メールに怯むことなく、一通ずつ丁寧に対応していた。この背後には、なにがあったのか。権威主義的な批判者たちが「鹿茸童子は鹿の角を生やしていない」と言い立てても、彼女は決して揺るがなかった。
世間の反応を見ると、「自分が言葉遣いを気にして誰かを傷つけまいとしているのか、それとも自分たちの反応が『理想の標準』であると他人に押し付けているだけなのか」という疑問が浮かび上がる。
せんとくんへの批判は、美と善の区別が曖昧な社会の姿を露呈していると言える。批評家たちは必ずしも公平とは言い切れないだろう。批判が多ければ多いほど良い記事というわけではない。むしろ、批評家自身が自分の言動を美化し、周りを理解できない愚かな姿勢を見せていないだろうか。「つらくなかった?
」という問いに対しての彼女の答えも気になるところである。